誕生名:プトレマイオス
即位名:メリアメン・セテプエンラー
在位B.C.305〜282。即位名の意味は「アメンに愛され、ラーに選ばれしもの」。アレキサンダー大王の死後、異母弟のフィリッポス・アリダイオスとアレキサンダー大王の息子アレキサンダー4世が形式上跡を継いだが、実質エジプトを支配していたのはエジプト総督を務めていたプトレマイオスであった。彼は「アレキサンダー大王はシーワ(エジプト西部、大王がアメン神の神託を受けたとされる場所)に葬られることを望んでいた」として、マケドニアへの運搬途中にあった大王の遺体を略奪、エジプトに運び込む。大王の死後帝国は後継者争いで混乱していたが、プトレマイオスは大王の遺体を手にすることで領土分割やエジプトでの王位継承を有利に運ぶことが出来た。プトレマイオスはアレキサンダー大王の遺体をアレキサンドリアに埋葬したが墓は見つかっていない。アレキサンドリアの遺跡は大方海底に沈んでいるため、大王の墓も海に沈んだ可能性が高い。こうして新たにエジプトの王として即位した彼は、アレキサンドリアを首都として宗教、文化等エジプトの習慣を尊重、新たにギリシャ文化も持ち込みつつも民衆の思想等も考慮した政治によりエジプトを支配する(エジプトの神とギリシャの神を合体させた新しい神も誕生)。エジプト人は外国人王家という違和感もそれほどなく新しいファラオを受け入れていった。アレキサンドリアは大規模な図書館やムセイオン(学術研究所)により学術都市として発達していく。また、各地に神殿を建築するなど建築事業も積極的に行い、現在でも保存状態よく残っているものも多い(アスワンのイシス神殿など)。世界七不思議(古代)の一つであるファロス灯台の建設も行っている。また血筋を保つために第30王朝のネクタネボ2世の娘と結婚したがこれは形式的なものであり、寵姫はマケドニアの摂政アンティパトロスの娘エウリディーチェとその侍女だったベレニケ1世であった。ベレニケ1世は次の王プトレマイオス2世を産んでいる。
イシス神殿 |
アレキサンドリア図書館
世界中の書物が集められ、蔵書数は70万巻とも言われる大規模な図書館。ムセイオンの付属機関として造られた。アレキサンドリアに来訪する者は持参した書物全てを提出し、図書館が写本を作成、帰りに写本の方を返却されるというシステムだった。まさに知の殿堂であったと言える。アレキサンドリアで活躍した学者には、アルキメデス(数学者)、ユー・クリッド(数学者)、ヘロフィロス(解剖学者)、エラトステネス(天文・物理学者)、プトレマイオス(天文・物理・数学者)、アポロニオス(叙情詩人)、アリスタルコス(文法学者・詩人)など有名処が勢揃い。その後の科学の発展に大きく貢献する。図書館自体は焼失して残っていない。建物が現存する古代地中海世界で最古の図書館はトルコのエフェソスにある2世紀のもの。
エフェソスの図書館跡 2世紀 |
誕生名:プトレマイオス
即位名:ウセルカエンラー・メリアメン
在位B.C.285〜246。即位名の意味は「ラーの魂は強い、アメンに愛されしもの」。プトレマイオス1世の息子。父の跡を継承した政治を行い、国内は安定していた。ファロス灯台も彼が完成させている。結婚に関しては古代エジプト王家の慣習を取り入れて妹アルシノエ2世と結婚した。近親婚は当時のギリシャや周辺諸国ではタブーであったが、彼にとってこのような異質な習慣もエジプト王になりきるためと受け入れたものと思われる。この王に仕えたギリシャ系エジプト人の神官であったマネトーは、エジプトの歴史を全30巻の「エジプト史(Aigyptiaka)」にかなり詳細にまとめた。
プトレマイオス2世と王妃アルシノエ2世 |
誕生名:プトレマイオス
即位名:イウアエンネチェルウイセヌイ・セケムアンクラー・セテプアメン
在位B.C.246〜222。即位名の意味は「二神の後継者、アメンに選ばれしもの」。プトレマイオス2世の息子。産みの親はアルシノエ1世(アレキサンダー大王の将軍リュシマコスの娘)であったが、謀反の噂により追放されたため、アルシノエ2世に育てられる。義理の伯父にあたるキレナイカの王マグス(プトレマイオス2世の母ベレニケ1世と前夫フィリッポスの間の息子)の娘ベレニケ2世と結婚した。この王の時代に戦争が起きる。彼の妹ベレニケがシリアのアンティオコス2世と結婚していたが、その妹が王家の陰謀に巻き込まれ命が危ないと助けを求めてきた。すぐに駆け付けるが既にアンティオコス2世も妹もその幼い王子も殺されていた。プトレマイオス3世はその復讐のためアンティオキアを攻め、更にバビロニアまで進軍した。結果的にこの王朝で最大の領土となる。また、国内のエドフのホルス神殿など建築事業も積極的に行い、安定と繁栄の治世であった。
プトレマイオス3世のレリーフ |
誕生名:プトレマイオス
即位名:イウアエンネチェルウイメンクイ・セテププタハ・ウセルカラー・セケムアンクアメン
在位B.C.222〜205。即位名の意味は「慈悲深い二神の後継者、プタハに選ばれしもの、ラーの魂は強い、アメンの生きる姿」。プトレマイオス3世の息子。父と違い、政治そっちのけで放埓な生活を送る。無能な王に取り入ったのがギリシャ人の大臣ソシビウスと王の臣下アガトクレスであった。まずはプトレマイオス4世に根拠のない噂話で疑心暗鬼を植え付け、母ベレニケ2世と弟マグスを殺害させる。アガトクレスは自分の妹のアガトクレアを4世の愛人とし乱行はエスカレート、王は完全に彼らの操り人形状態となった。王家の混乱に乗じて周辺諸国はエジプトの属領都市奪還を虎視眈々と狙うようになる。
プトレマイオス4世のレリーフ |
誕生名:プトレマイオス
即位名:イウアエンネチェルウイメルウイトウ・セテププタハ・ウセルカラー・セケムアンクアメン
在位B.C.205〜180。即位名の意味は「父を愛する二神の後継者、プタハに選ばれしもの、ラーの魂は強い、アメンの生きる姿」。プトレマイオス4世とその妹であり王妃であったアルシノエ3世との息子。父王の死後奸臣達は未亡人のアルシノエ3世を殺害し、まだ幼い息子のプトレマイオス5世の後見役になるが、プトレマイオス4世殺害の疑惑もあった彼らに対し、将軍トレポレムスら有力者達が民衆も巻き込んでの反乱を起こし内乱状態となる。この間混乱に乗じて周辺諸国は次々とエジプトの支配から脱していき、プトレマイオス3世が拡げた領土を次々と失っていく。プトレマイオス5世はメンフィスで戴冠、恩赦により税金の免除、罪人の刑の免除、軍人の給料増額等の大盤振る舞いを行う。内乱は鎮静化し12歳の新王の人気は上々。この内容を記したメンフィス神官会議の決議が、ヒエログリフ解読の鍵となったロゼッタストーンに刻まれている。プトレマイオス5世はシリアのアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世と結婚し、何とかシリアとの関係も良好を維持した。
ロゼッタストーン |
誕生名:プトレマイオス
即位名:イウアエンネチェルウイペル・セテプンプタハケペリ・イルマアトエンアメンラー
在位B.C.180〜164、B.C.163〜145。即位名の意味は「神々の2つの家の後継者、プタハに選ばれしもの、真実はアメン・ラーの形相」。プトレマイオス5世の息子。治世の5年目までは母親のクレオパトラ1世が摂政を務めたが、彼女の死後に高官エウラエウスとレナエウスが取り入り、領土を拡げようとシリアのアンティオコス4世に戦いを挑む。しかしあっさりと敗北、プトレマイオス6世はアンティオコス4世の人質となってしまう。これに怒ったエジプトの市民はプトレマイオス6世の弟、プトレマイオス8世をファラオとして擁立する。6世と8世の兄弟は当然対立するが、既に地中海世界の大国となっていたローマの介入もあり、シリア保護下のプトレマイオス6世はメンフィスから南を、プトレマイオス8世はアレキサンドリアを擁する北部のデルタ地方を支配することとなった。プトレマイオス6世はアンティオコス4世の甥にあたるが(プトレマイオス6世の母親がシリアのアンティオコス3世の娘クレオパトラ1世)、シリアの支配を疎ましく思うようになり、対立していたプトレマイオス8世と対シリアで同盟を結びローマに泣きつく。ローマはシリアをエジプトから撤退させ、エジプト全土の支配をプトレマイオス6世に認め、プトレマイオス8世はキレナイカ(北西部のエジプト従属国)の王となった。その後しばらくは平和が続くが、プトレマイオス6世は再度シリアを攻撃する。妻のクレオパトラ2世との間の娘、クレオパトラ・テアがシリアに嫁いでいたのだが、夫のアレキサンダー1世が王位を追われ殺害される。プトレマイオス6世は娘を助けるために攻め入るが、そこで戦死してしまう。当の娘テアは後継者のデメトリオス2世、アンティオコス7世と次々と結婚、シリアで盤石な地位を築いていく。
プトレマイオス6世のレリーフ |
キレナイカ
エジプト北西部の従属国。沿岸部のキュレネにギリシャ人が入植して建設した。アレキサンダー大王の征服以降、この時代はプトレマイオス朝の支配下にあった。プトレマイオス8世にとって「属国の王」という立場は大変不満であったと思われる。
誕生名:プトレマイオス
在位B.C.145。プトレマイオス6世の息子。母はクレオパトラ2世。在位1年に満たずにプトレマイオス8世に殺害される。
誕生名:プトレマイオス
在位B.C.170〜163、B.C.145〜116。プトレマイオス6世の弟。キレナイカの王に甘んじていた彼はプトレマイオス6世の死後、チャンス到来とばかりにエジプトに戻り王位奪還を画策する。甥にあたるプトレマイオス7世とその母クレオパトラ2世(プトレマイオス8世の妹)をメンフィスに追いやり、更にプトレマイオス7世を王にするとの条件でクレオパトラ2世と結婚する。しかし、クレオパトラ2世が彼の子供を産むとプトレマイオス7世を殺害、更にクレオパトラ2世とプトレマイオス6世の娘、クレオパトラ3世とも結婚する。母娘のクレオパトラがともに王妃となったため、クレオパトラ2世は「妹クレオパトラ」、クレオパトラ3世は「妻クレオパトラ」として区別される。プトレマイオス8世は「太鼓腹」とあだ名される肥満体で、傍若無人な所業で民衆から嫌われていた。反して「妹クレオパトラ」はいかれたファラオの犠牲者と同情を買い人気が高まる。やがてプトレマイオス8世に対する民衆の不満が爆発し、プトレマイオス8世は若い「妻クレオパトラ」を連れてキプロスに逃れる。「妹クレオパトラ」は「救済者」としてエジプトを統治するようになり、民衆はプトレマイオス8世の彫像や記念碑を破壊した。プトレマイオス8世はこれに嫉妬し腹いせに「妹クレオパトラ」と自分の間の息子メンファイテスを殺害し、バラバラに切断した上で「妹クレオパトラ」への誕生日プレゼントとして送り付けている。キプロスで力を蓄えたプトレマイオス8世がエジプトに舞い戻ると「妹クレオパトラ」はシリアに嫁いでいる娘クレオパトラ・テアのもとに逃げ込んだ。再び王位についたプトレマイオス8世だが、相変わらずの嫌われ者、最後までよき支配者となることなはなかった。「妹クレオパトラ」はシリアからエジプトに戻っているがその後の消息は不明。プトレマイオス8世の死後エジプトを相続したのは「妻クレオパトラ」であったことから、「妹クレオパトラ」はプトレマイオス8世よりも前に亡くなった可能性が高い。
プトレマイオス8世とクレオパトラ2世の祠堂 |
誕生名:プトレマイオス
在位B.C.116〜110、B.C.109〜107、B.C.88〜80。プトレマイオス8世の息子。母親のクレオパトラ3世は長男であるこのプトレマイオス9世ではなく次男のプトレマイオス10世を溺愛していた。慣習に従って長男のプトレマイオス9世を共同統治者とするが、母の暗殺を企てたとの嫌疑をでっち上げ、キプロスへ追放、プトレマイオス10世を王位につけた。プトレマイオス10世の死後キプロスから戻り再度王位につく。
プトレマイオス9世が建てた石碑 |
誕生名:プトレマイオス
在位B.C.110〜109、B.C.107〜88。プトレマイオス8世の息子。母親のクレオパトラ3世に溺愛され、プトレマイオス9世追放後に即位する。母親に甘やかされて育った彼はプトレマイオス8世同様の肥満体で自己中心的、民衆の反感を買い、ついには反乱を起こされて逃亡、地中海の海上で殺される。なお、クレオパトラ3世は60歳で亡くなっているが、母親の溺愛と過干渉に耐えきれなくなったプトレマイオス10世が殺害したとの説もある。
誕生名:プトレマイオス
在位B.C.80。プトレマイオス10世の息子。前王プトレマイオス9世には嫡男がいなかったため、娘のベレニケ3世(プトレマイオス10世の妻でもあった)が王位を継承、彼女と結婚することでプトレマイオス11世として即位した。伯母であり継母でもあるベレニケ3世を嫌った彼は結婚後すぐに王妃を殺害してしまう。しかしベレニケ3世は民衆に人気があり、怒った民衆によって彼は即位19日で殺害される。王位は再び空白となる。
誕生名:プトレマイオス
即位名:イウアエンパネチェルネヘム・セテププタハ・イルマアト
在位B.C.80〜58、B.C.55〜51。即位名の意味は「救済する神の世継ぎ、プタハに選ばれしもの、真実の形で」。プトレマイオス9世とギリシャ系女性との間の息子。庶子ではあるがプトレマイオス1世の血を引く最後の男子達がポントス王国に身を寄せていたが、最年長だった彼が呼び戻され、当時地中海世界の中心となっていたローマの承認を得てファラオに即位する。年下の弟はキプロス王となった。プトレマイオス12世は酒に酔って笛ばかり吹いていたことから「笛吹き王」というあだ名がつけられ、強国ローマに媚びへつらい民衆には重税を課したため、またしても民衆の暴動が起こりローマに逃亡、王位は空白となる。娘のベレニケ4世が王位を継承するが、ローマに逃亡していたプトレマイオス12世は王位復権を画策し続け、ローマ元老院と軍隊を味方に付けてアレキサンドリアへ侵攻する。ベレニケ4世は処刑され、プトレマイオス12世が王位に復帰するが、ローマの援助への返礼に国の財産をローマに貢ぎ続け、民衆からは反感を買う。エジプトがローマの属州となる道筋を作ったとも言える。
プトレマイオス12世のレリーフ | |
ポントス王国
黒海南岸の小国。初期はアケメネス朝ペルシャの属国状態であったが、アレキサンダー大王の死後後継者アンティゴノスによる支配を経てやがて独立する。当時プトレマイオス9世の庶子達がポントスの王宮に身を寄せていた。
誕生名:ベレニケ
在位B.C.58〜55。プトレマイオス12世の娘。プトレマイオス12世が民衆蜂起により追放されたため王位を継承した。彼女はシリアの従兄弟と結婚するが、何が気に入らなかったのか結婚3日で夫を殺害、新たに幼馴染のアルケラウスと結婚し、国を治める。しかしローマに逃げていた父親のプトレマイオス12世がローマを味方につけてアレキサンドリアに侵攻、彼女は処刑される。
誕生名:クレオパトラ
在位B.C.51〜30。誕生名(通称)の意味は「女神、父に愛されしもの」。プトレマイオス12世の娘。単に「クレオパトラ」と言えば通常この7世を指す。プトレマイオス12世が亡くなると、クレオパトラ7世と弟のプトレマイオス13世が共同統治という形で即位するが、まだ幼いプトレマイオス13世は廷臣ポティノスとアキラスの操り人形状態であり、彼らから見れば利発なクレオパトラは邪魔者以外の何物でもなかった。妹のアルシノエ4世も弟側についており、孤立無援のクレオパトラは暗殺の危険を察知しシリアへ逃げる。間もなく軍備を整えて帰国、国境の街ペルシウムで弟の軍隊と戦闘となる。この頃ローマではユリウス・カエサルとグナエウス・ポンペイウスとの間で内戦が勃発しており、ファルサスの戦いでカエサルに敗れたポンペイウスはエジプトに逃げ込み、プトレマイオス13世に助けを求めた。しかしポティノスとアキラスは敗戦の将よりも勝者カエサルの歓心を買う方が得策と考えポンペイウスを殺害してしまう。ところが間もなくエジプトに到着したカエサルは自分で打ち取ってこそ勝利と考えていたためこの処置に激怒、歓心を買うどころか多いに機嫌を損ねる結果となった。クレオパトラはカエサルを味方につけるため策を講じて密会に成功する(厳重な警備をすり抜けるために絨毯にくるませてアレクサンドリアに滞在しているカエサルのもとに運ばせたという逸話が残っているが真偽は不明)。聡明なクレオパトラを気に入ったカエサルは姉弟を和解させ共同統治が復活する。これが気に入らないプトレマイオス13世は軍司令官のアキラスと共に軍を起こしカエサル率いるローマ軍に戦いを挑むが、あっさり敗北。プトレマイオス13世はこの時ナイル川で溺死、妹のアルシノエ4世も捕らえられローマを引き回される。クレオパトラはアルシノエの処刑を望んだがカエサルは応じなかった(後にアントニウスによって処刑される)。なおこの戦いで発生した火事によりアレキサンドリア図書館の貴重な書物が大半焼失してしまったとされる。クレオパトラはもう一人の弟プトレマイオス14世を共同統治者としてエジプトを治めることとなったが、実質的には恋人となったカエサルの後見のもとクレオパトラが実権を握った。カエサルとの間には息子のカエサリオンが生まれる。B.C.46、ローマに戻っていたカエサルを訪ね、子供(カエサリオン)を認知させるが、カエサルの歓待ぶりにローマ市民は反発する。B.C.44、カエサルが暗殺されると急いでエジプトに逃げ帰る。間もなくプトレマイオス14世が亡くなった(クレオパトラが毒殺したとの説あり)ため、まだ3歳のカエサリオンをプトレマイオス15世として即位させ共同統治者とした。ローマではカエサルの死後アントニウスとオクタビアヌスが勢力争いを繰り広げていた。オクタビアヌスはカエサルの遺言で後継者に指名されており、実の大甥(姪の子)であり、養子でもあった。クレオパトラはアントニウスと手を組み王朝の存続を図る。アントニウスとの間には双子の男女(アレキサンダー・ヘリオス、クレオパトラ・セレネ)ともう一人男の子(プトレマイオス・ピラデルポス)が生まれている。アントニウスはクレオパトラの魅力にのめり込んでいき、彼女の希望のままに遠征の凱旋をローマではなくアレキサンドリアで行ったり、クレオパトラの子供たちに領土を割譲する約束をしたりと、ローマ市民の反発を買うことになる。オクタビアヌスはこのことを利用してアントニウスに宣戦布告するが、これはローマ対エジプトという構図で行われた。決戦となったアクティウムの海戦では敗戦濃厚となった戦線をクレオパトラの船団が離脱し始め、アントニウスは戦場放棄してクレオパトラを追ったとされている。オクタビアヌスはアレキサンドリアに攻め入るが、万事休したアントニウスは自殺、クレオパトラはカエサリオンをインドに逃がし、自分はアントニウスを追って自殺する。生け捕ってローマを引き回したかったオクタビアヌスの監視をかいくぐり、コブラに自分を噛ませたと言われている。エジプト王朝はこれにより終焉を迎え、この後はローマの属領となる。カエサリオンはオクタビアヌスによって殺害され、アントニウスとクレオパトラの間の子供たちはアントニウスの正妻でありオクタビアヌスの姉でもあるオクタビアが引き取って育てる。
クレオパトラの魅力
クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていた− これは17世紀のフランスの哲学者パスカルの言であるが、実際にはクレオパトラの魅力はその容姿というよりは、多言語を操る知性、優雅さ、もてなし上手、政治的手腕などによるもので、鼻が低かったとしてもローマの英雄2人を惹きつけた魅力は変わらなかったと思われる。当時の歴史家プルタルコスは、クレオパトラの容姿は十人並みだが声が非常に美しかったと記している。ギリシャ語母語のプトレマイオス家で唯一現地エジプト語を理解し、ラテン語も流暢でカエサルやアントニウスと通訳なしで会話出来た。当時の周辺国の言葉はほぼ理解していたと言われる。また大変なプレゼン上手、初対面で強烈なインパクトを相手に与えている。絨毯の中から登場してカエサルを驚かしたり、アントニウスには呼び出しを受けながら散々焦らして待たせてから豪華絢爛な船に招待、真珠を酢に溶かして飲みこむなど財力を見せつけるパフォーマンスで彼を圧倒する。ただし実際には絨毯に人をくるんで運ぶのはかなりの重量となり困難だし、酢に入れたからと言って真珠が溶けてなくなるわけではないので、ある程度の脚色や誇張はあると思われる。
誕生名:プトレマイオス
即位名:イウアパネチェルエンティネヘム・セテプエンプタハ・イルマアトエンラー・セケムアンクアメン
在位B.C.36〜30。即位名の意味は「救済する神の世継ぎ、プタハに選ばれしもの、ラー支配・宗規を実行する、アメンの生ける姿」。クレオパトラとカエサルの息子。オクタビアヌスとの戦いに敗れたクレオパトラによってインドに逃がされるが、養育係の裏切りによってオクタビアヌスの元に差し出されて殺害される。アントニウスとクレオパトラの間の子供達は殺さずに姉に託したオクタビアヌスであったが、カエサルの血を引き「カエサルの後継者」になり得るカエサリオンを生かしておくわけにはいかなかったものと思われる。