HOMEファラオのページTOPファラオ全員集合TOP新王国時代TOP第18王朝


第17王朝(B.C.1663〜1570)


@イアフメス1世


誕生名:イアフメス



即位名:ネブペフティラー


在位B.C.1570〜1546。誕生名の意味は「月は生まれる」、即位名の意味は「力の主はラー」。第17王朝最後の王カーメスの弟。ヒクソスとの戦いで兄カーメスが亡くなった時はまだ幼かったため、母であり、タア2世(カーメスとイアフメスの父)の妃であったイアフヘテプが摂政を務めていたと思われる。父王、兄王の後を引き継いだ対ヒクソス戦で勝利をおさめ、ヒクソスを放逐した。また、ヒクソスと協力関係にあった南のヌビア(クシュ王国)にも軍を進め制圧、エジプト全土を統一した。国境の警備を強化しつつ、内政は中央集権の専制政治ではなく、各地方の知事にある程度の権限や特典を与えることで国内を安定させた。王妃はイアフメス・ネフェルトイリで「アメン神の正妻」の称号を持つ実力者(後に神格化される)。これ以降アメン神は神々の中でも強大な力を持っていく。





Aアメンヘテプ1世


誕生名:アメンヘテプ



即位名:ジェセルカラー


在位B.C.1551〜1524。誕生名の意味は「アメンは喜ぶ」、即位名の意味は「聖なるはラーの魂」。イアフメス王の息子。まだ不安定要因であったヌビアへの遠征やカルナック神殿の建設などを行った。王妃はイアフメス・メリトアメン。


アメンヘテプ1世 王妃イアフメス・メリトアメン






Bトトメス1世


誕生名:トトメス



即位名:アアケペルカラー


在位B.C.1524〜1518。誕生名の意味は「トト神から生まれた者」、即位名の意味は「偉大なるはラーの魂」。アメンヘテプ1世との血縁関係はなく軍人出身のファラオ。イアフメス1世の娘イアフメスと結婚することでファラオとなった。北はレバノン地域から南はヌビアまで、積極的に軍事遠征を行い領土を拡張させた。またカルナック神殿(アメン神の神殿)の大規模な増築なども行い、アメン神官団の勢力が更に大きくなっていく。王家の谷に墓を作った最初のファラオ。



トトメス1世






Cトトメス2世


誕生名:トトメス


即位名:アアケペルエンラー


在位B.C.1518〜1504。即位名の意味は「偉大なるはラーの形」。トトメス1世の第3王子だが、下位の妃ムトネフェルトとの間の息子で立場が弱く、王位継承の正当性を確かなものにするために、父王と正妃イアフメスとの間の第1王女ハトシェプスト(つまり異母妹)と結婚した。ハトシェプストは王妃の時から大きな権力を持っており、病弱なトトメス2世が亡くなると更に力を強めていく。トトメス2世の業績としては西アジア(パレスチナ)への遠征やヌビアでの反乱の鎮圧などの記録がある。





Dハトシェプスト女王


誕生名:ハトシェプスト


即位名:マアトカラー


在位B.C.1498〜1483。誕生名の意味は「最も高貴な婦人」、即位名の意味は「真実とはラーの魂なり」。トトメス1世の第1王女。父トトメス1世に心酔しており、埋葬された父王の遺体を自分と同じ墓に移動させた痕跡が残っている。夫であり異母兄であるトトメス2世との間にネフェルラーという王女がいたが、王子はいなかった。王位はトトメス2世と側室イシスとの間の息子であるトトメス3世に引き継がれたが(ネフェルラーと結婚することで王位継承の正当性を確保)、まだ幼少だったトトメス3世に代わり摂政としてハトシェプストが政治を行った。そしてついには自らをファラオとして君臨するに至るが、治世年としてはずっとトトメス3世の治世年を使っていた。当初は幼いトトメス3世に代わり政治を行うという立場で満足していたようであるが、高官達の間で政治家として有能なハトシェプストによる単独統治を望む声があがり、野心家の彼女はその声をバックに実質的に女王として権力を握るに至った。彼女は王として統治することの正当性を示すために、自分はアメン神がイアフメス王妃(トトメス1世の正妃、ハトシェプストの母)を訪れて生まれた王位継承者であるという誕生神話を宣伝し、自分を付け髭をつけた男性ファラオと同様な姿で描かせた。

ハトシェプストは戦争などの軍事行動は行わず、神殿の増改築や外国との貿易を積極的に行い経済を発展させた。特にプント国(東アフリカのどこかと推測されているが詳細は不明)との交易により珍しい薬品や神殿の儀式に使う香油類、動物など様々な品を入手し、国庫は潤っていった。

ハトシェプストの側近センムトは、低位な生まれながら女王治世下で宰相にまで上り詰めた実力者。王女ネフェルラーの養育係を務め、またディル・エル・バハリに壮麗な彼女の葬祭殿を建設した。


ハトシェプスト女王
 
ハトシェプスト女王 葬祭殿(ディル・エル・バハリ)
   
プント国との交易の図  
 






Eトトメス3世


誕生名:トトメス


即位名:メンケペルラー


在位B.C.1504〜1450。即位名の意味は「ラー神の顕現は永続する」。幼少期に父トトメス2世の後を引き継いで即位したが、叔母であり義母であるハトシェプストが実権を握っていたため長らく名目だけの王位であった。ハトシェプストの死後ようやく実質的な王として統治を始める。長年名目だけの王位で煮え湯を飲まされ続けた彼は、ハトシェプストの建築物を破壊し彼女の名前を削らせている。これは彼女のことを恨んでの所業とされてきたが、その割に破壊の仕方が中途半端である部分もあり、恨みというよりは女性が王位についていたという事実を隠蔽したかっただけとの見方もある。後世の王名表からはハトシェプストの名は抜かれている。

トトメス3世は「古代エジプトのナポレオン」との異名を持つ程軍事行動に力を入れ、西アジアへの17回にわたる大遠征、南はヌビアでの軍事行動などでエジプトの領土を拡大させた。トトメス3世はハトシェプスト存命中表舞台に出ることはなく、おそらく軍隊に所属し軍事訓練や戦略の勉強などに明け暮れていたものと思われる。特に祖父であるトトメス1世(軍人出身のファラオ)を敬愛し、彼の戦争の記録などから多くの知識を吸収した。カルケミシュにあったトトメス1世の国境の碑の横に自分の碑も並べて作っている。

メギドの戦い
ハトシェプストの平和政策のおかげでシリア・パレスチナ方面でのエジプトの影響力は非常に弱まっていた。メギドの戦いはトトメス3世が最初に行った軍事遠征で、この地域における交通の要衝であるメギドを奪還するための戦いである。ガザを経てメギドまであと1日と迫ったヤハムで、メギドまでのルートを巡り将軍達と議論が行われた。ヨクメアムからの北ルート、ターナクからの南ルート、アルナ峠を抜ける峠越え難関ルートの3つの中から、トトメス3世が選んだのは峠越えルートであった。将軍達は簡便な北、南ルートを強く推したが、トトメス3世は敵軍の待ち伏せにあうリスクがあるとして、峠越えを選んだのである。狭小な道幅の峠は、確かに難所ではあったが敵軍は皆無であった。トトメス3世の予想通り敵軍は北、南ルートを守っていたのである。こうしてエジプト軍はメギドまで無事たどり着くことが出来た。メギドでは生き残った敵軍が7カ月にわたり城砦内で籠城したが、最終的にはエジプト軍が勝利する。また、トトメス3世はこうして支配下に置いた小国の王子や次期国王などをエジプトに連れ帰り、エジプト風の教育を施し洗脳して国に返すという斬新なやり方でエジプトに対する反感を徐々に減らしていった。





トトメス3世






Fアメンヘテプ2世


誕生名:アメンヘテプ(ヘカイウヌ)


即位名:アアケペルウラー


在位B.C.1453〜1419。誕生名の意味は「アメン神は喜びたまう、ヘリオポリスの支配者」、即位名の意味は「偉大なるかな、ラー神の出現」。トトメス3世の息子で、父の影響もあり若い頃から軍事訓練に明け暮れた。彼はトトメス3世の第一王妃(早逝したネフェルラーではなく、単独統治となってから結婚した新王妃ハトシェプスト・メリラー)の息子であったため王位継承には何の問題もなく、有能な父のもとで軍事や政治など様々な知識を吸収して育った。体格は立派でスポーツ万能であったらしく、武術にも秀でた英雄的なイメージで描かれていることが多い。パレスチナ地域ではトトメス3世の死の一報を受けて反乱が起こっていた。アメンヘテプ2世の最初の軍事遠征はこの反乱の鎮圧であった。父に劣らず手強い王であることを見せつけるよい機会となった。軍事力だけでなく、敵国の捕虜を無残に殺害して晒すといった残虐性も見せつけ、恐怖による反乱分子の制圧など心理作戦にも長けていた。

アメンヘテプ2世の墓は王家の谷にあり、副葬品のほとんどは盗掘されていたがミイラは無事であった。また、同じ墓の中から後世の王達(アメンヘテプ3世、セティ2世、メルエンプタハ、ラムセス4世等)のミイラが多数見つかった。後世の神官達が横行する墓泥棒からミイラだけでも守ろうと一か所に集めたようで、「カシェ」(隠し場所)と呼ばれている。





Gトトメス4世


誕生名:トトメス


即位名:メンケペルウラー


在位B.C.1419〜1386。即位名の意味は「永遠なるかな、ラーの出現」。アメンヘテプ2世の息子であるが、第一王妃の息子ではなく王位継承に疑問があったらしい。それをうかがわせるのがスフィンクスの「夢の碑文」である。王子時代の彼が砂漠に狩りに出かけ、疲れて昼寝をしていた時に夢を見る。夢の中にスフィンクスが現れ「我が身体を砂から出してくれ、そうすれば王にしてやろう」と言った。驚いたトトメス4世は早速そこを掘ってみるとスフィンクス像が現れ、彼は予言通り王となったという話で、王位継承の正当性をわざわざ示す必要があったためにそのような話を作ったと思われる。勢力を強めていたアメン神ではなくスフィンクス(太陽神)を持ち出していることから、王家と政治に干渉するまでに増長していたアメン神官団の間の確執が少しづつ表に出てきていたものと考えられる。


トトメス4世 ムテムイア王妃の船 
   
スフィンクスと夢の碑文  
 






Hアメンヘテプ3世


誕生名:アメンヘテプ(ヘカワセト)


即位名:ネブマアトラー


在位B.C.1386〜1349。誕生名の意味は「アメン神は喜びたまう、テーベの支配者」、即位名の意味は「真実の主はラーなり」。トトメス4世とムテムイア王妃との息子。ムテムイアはミタンニの王女だったとも言われている。先王達の活躍で、エジプトは非常に豊かで強大な帝国となっていた。アメンヘテプ3世はその帝国を父からそのまま引き継いだ果報者と言える。西アジア地域の反乱などもなく大きな戦争は起こっていないが、ヌビアにパフォーマンス程度の遠征は行い、王の称号に「アジア人を打つ偉大な者」、「シリアの略奪者」などの勇ましいものをつけている。他国との貿易も盛んに行われており、政略結婚による同盟など平和外交によってより発展した時代と言える。

アメンヘテプ3世の王妃は王族ではなく民間出身のティイであった。彼は色々な意味でそれまでの慣習を無視した自由なファラオであったと言える。この結婚に関してもその一例である。ティイはデルタ地方の貴族イウヤ・チュウヤ夫妻の娘で、この夫妻は王族ではないのに王家の谷に墓を造営するに至っている。

アメンヘテプ3世は潤沢な資金を使って思う存分建築を行っている。そのうち三大事業とも言えるのがマルカタ王宮、葬祭殿、ルクソール神殿の建築である。マルカタ王宮はそれまでの王宮の老朽化に伴って新設したが、なんとナイル川の西岸に作ってしまった。ナイル川西岸は通常「死者の町」(日没の方向のため)で、葬祭殿や墓所が築かれる場所である。アメンヘテプ3世はここでもこれまでの慣習を無視している。東岸にはアメン神の総本山カルナック神殿があり、アメン神官団との軋轢により遠く離れた西岸に王宮を移したのかも知れない。マルカタ王宮は日干し煉瓦作りであったため、現在はほとんど残っていない。王宮は現世での家なので一時的なものとの概念があり、日干し煉瓦作りが普通であった。死後の世界(永遠)のための墓所や、神々の居住する神殿は永遠に残るように石で作られた。アメン神官団と軋轢があるとは言え、まったく無視することはその勢力を考えても出来なかったようで、カルナック神殿の副神殿となるルクソール神殿を建築している。また、ナイル川西岸に巨大な葬祭殿を建築したが、後世石材として再利用されてしまったため葬祭殿自体は残っていない。葬祭殿の入り口にあった2体の像だけが「メムノンの巨象」として残っている。メムノンとはギリシャ神話の英雄の名で、トロイ戦争で戦死した悲劇の英雄である。この地を訪れたギリシャ人が、破損したこの像が朝夕の気温変化の影響で音を発するのを聞いて、メムノンの母である女神エオスの鳴き声と解釈し「メムノンの像」と名付けた。その後ローマ皇帝によって破損部分が修復されて音は発しなくなった。


アメンヘテプ3世  アメンヘテプ3世と王妃ティイ
   
ティイの母チュウヤ  
 
   
 カルナック神殿  ルクソール神殿
   
 メムノンの巨象  
 






Iアクエンアテン


誕生名(改名):アクエンアテン


即位名:ネフェルケペルウラー


在位B.C.1350〜1334。誕生名(改名)の意味は「アテン神の僕」、即位名の意味は「美しきはラー神の出現」。当初はアメンヘテプ(4世)と名乗っていたが、宗教改革及び遷都という一大革命に伴い改名し、アクエンアテンとなった。アメン神官団の政治干渉を排除するために、多神教からアテン神を唯一神とする一神教への改革を行い、アメン神他の神々の神殿などが多数あるテーベを捨てて、メンフィスとの中間辺りに位置する処女地(現在のテル・エル・アマルナ)に新しい都アケトアテンを造営した。アメンヘテプというアメン神にちなんだ名前もアクエンアテンに改名、既存宗教の神官団や民衆も巻き込んでの大改革を断行した。芸術に関しても、規格化された従来の表現手法から、より写実的な表現を重要視するようになる。王や王妃の彫像などはおそらく実際の見た目に近いものと思われる。これらの芸術手法は「アマルナ芸術」と呼ばれている。



アクエンアテン  王妃ネフェルティティ



アテン神への宗教改革
アテン神は太陽神ラーの一形態として古くから存在する神であったが、アクエンアテンはこの神以外の一切を否定し神殿も閉鎖、唯一神アテンの布教を推し進めた。アテン神は太陽の形で表され、偶像崇拝は認められなかった。また、アテンと交信出来るのはアクエンアテンだけであり、従来のような神官を必要としなかった。神殿は太陽を拝むため、屋根のないものであった。また、唯一の創造神、この世界を創造した神ということで、エジプト人に限らず全ての人に太陽の恵み、慈愛を与えるもので、戦争などは否定されている。既に民衆の中に深く浸透している多神教の中で、一神教を広めるのは至難の業であり、神官団の反発や人々の混乱もあり、最終的には世界史上初の宗教改革は失敗に終わる。アクエンアテンの死とともにアケトアテンは放棄され、従来の信仰が復活した。しかしアテン信仰はその後の一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)のルーツになったと言われている。

アテン神とアクエンアテン一家
 






Jスメンクカラー


誕生名:スメンクカラー(ジェセルケペル)


即位名:アンクケペルウラー


在位B.C.1336〜1334。誕生名の意味は「生気あふるるはラー神の魂、聖なる出現」、即位名の意味は「生あるものはラー神の出現」。アクエンアテンの息子または弟と考えられているが詳細は不明な点が多い。短期間(2年程度)アクエンアテンと共同統治を行い、アクエンアテンと同時期に相次いで亡くなったと思われる。アテン神への宗教改革が失敗に終わったことをアクエンアテン自身もよく分かっており、スメンクカラーをテーベに送りアメン神官団との調停の役割を負わせた。アクエンアテンの娘メリトアテンと結婚していたとされているが、この王に関しては記録がほとんどなく、実はネフェルティティがアクエンアテンの死後、スメンクカラーとして自らファラオとなったのではとの説まである。





Kツタンカーメン


誕生名(改名):ツタンカーメン(ヘカイウヌシェマ)


即位名:ネブケペルウラー


在位B.C.1334〜1325。誕生名(改名)の意味は「アメン神の生きる似姿」、即位名の意味は「出現の主はラー」。9歳で即位、18歳頃死亡した。アクエンアテンと側室キヤとの間の息子と見られている。アクエンアテン、スメンクカラー亡き後、王家の男子はまだ幼いツタンカーメンだけであり、王位は形だけで実際の政治は宰相のアイと軍司令官のホルエムヘブ(ともに後に王となる)が行うことで国を維持していた。アクエンアテンの宗教改革が国内を混乱に陥れたとして、アテン神及び都アケトアテンを放棄、従来の宗教を復活させアメン神官団とも関係を改善した。ツタンカーメンの誕生名は当初「トゥト・アンク・アテン」であったが、この従来宗教の復帰に合わせて「トゥト・アンク・アメン」に改名した。アクエンアテンの娘アンケセナーメンと結婚していた。18歳という若さで死亡した原因は様々な説(暗殺、事故、病死など)があるが、はっきりしていない。

ツタンカーメン ツタンカーメンとアンケセナーメン






Lアイ


誕生名:アイ(イトネチェル)


即位名:ケペルケペルウラー


在位B.C.1325〜1321。誕生名の意味は「アイ、神の父」、即位名の意味は「永続するのはラーの出現」。ツタンカーメンが世継ぎを残さず早逝したため、宰相だったアイが王妃アンケセナーメンと結婚することでファラオとなった。アイはアメンヘテプ3世の王妃ティイの兄と思われるため、アンケセナーメンには大伯父(祖母の兄)にあたる。これを快く思わなかったアンケセナーメンはとんでもない行動に出る。彼女は宿敵ヒッタイトに手紙を送ったことがヒッタイト側の記録に残っている。その内容は、宮廷を家臣達に乗っ取られるのを避けるため、ヒッタイトの王子をエジプトの王として迎えたいので王子を一人送ってくれと依頼するもの。ヒッタイトの王は王子を一人エジプトに送り込むが、道中襲われて殺されてしまう。軍トップだったホルエムヘブの仕業であると思われる。結局アイが即位するが、既に高齢だったため4年程で死亡し治世を終えた。





Mホルエムヘブ


誕生名:ホルエムヘブ(メリアメン)


即位名:ジェセルケペルウラー・セテプエンラー


在位B.C.1321〜1293。誕生名の意味は「ホルスは歓喜す、アメン神に愛されしもの」、即位名の意味は「聖なるものはラーの出現、ラーに選ばれしもの」。第18王朝最後の王。前王のアイに世継ぎがいなかったため、軍司令官だったホルエムヘブがネフェルティティの妹にあたるムトネジメトと結婚することでファラオとなった。軍の補強や官僚機構の整備などで国を立て直し、混乱の原因となったアテン神や神殿の破壊活動を積極的に行う。更にアクエンアテン、スメンクカラー、ツタンカーメン、アイの4人の王を異端として存在しなかったことにし、ホルエムヘブはアメンヘテプ3世の次王として4人の治世年も全て自分の治世年に加算した。後世の王名表にも4人の名はない。軍人としても政治家としても非常に有能だった彼は30年近くエジプトを統治し、第19王朝の礎石となる。

ホルエムヘブ






第18王朝系図