HOME>ファラオのページTOP>ファラオ全員集合TOP>新王国時代TOP>第19王朝
![]()
@ラムセス1世

誕生名:ラムセス

即位名:メンペフティラー
在位B.C.1293〜1291。誕生名の意味は「ラーが産みしもの」、即位名の意味は「永遠なるはラーの力」。第18王朝最後の王ホルエムヘブの腹心の部下であった。デルタ地方(ヒクソスの都だったアヴァリス)出身の軍人で、父親は「セティ」という軍司令官。ホルエムヘブの有能な補佐として活躍し、ホルエムヘブに息子がいなかったため王位を譲られた。ただ、即位時に既に高齢に達していたため、目立った業績もなく約2年という短い治世で亡くなる。
| ラムセス1世 |
![]() |
Aセティ1世

誕生名:セティ(メルエンプタハ)

即位名:メンマアトラー
在位B.C.1291〜1278。誕生名の意味は「セト神の君、プタハ神に愛でられしもの」、即位名の意味は「永遠なるはラーの正義」。ラムセス1世の息子で、父と同様に軍司令官を務めていた。父の治世中は宰相として王をサポートし、軍事面から行政まで幅広くこなした。この時代の懸案事項の一つが、強国ヒッタイトの台頭により不安定化していたシリア・パレスチナ地域の政情であった。軍人出身のセティ1世は、治世1年目から積極的にシリアへ攻め込んだ。トトメス3世の戦術を踏襲した補給路を確保しつつの行軍で、効果的に各小都市を攻撃した。しかしヒッタイトも強力であり、直接対決もあったが膠着状態のまま決戦は息子ラムセス2世に持ち越される。
セティ1世は壮大な建築物をいくつか残している。中でも重要なものはアビドスのセティ1世葬祭殿、カルナック神殿の大列柱室(完成は息子のラムセス2世)、そして王家の谷の自身の墓は最大規模の素晴らしいものである。アビドスはオシリス神の聖地と言われている場所であり、「セティ」という名に含まれているセト神はオシリス神の宿敵である。しかし国民の間でオシリス神は非常に人気があり、オシリス神を信仰することが国民の支持にもつながると考えたのかも知れない。アビドスの葬祭殿は神格化されたセティ1世、プタハ神、ラー・ホルアクティ神、アメン・ラー神、オシリス神、イシス女神、ホルス神に捧げられているもので、中でもオシリス神の至聖所が一番規模が大きい。この葬祭殿で特に重要なのが「祖先または記録の間」の壁に刻まれた王名表である。第1王朝からセティ1世までの王の名前を順番に並べた表で、異端とされていたアクエンアテン、スメンクカラー、ツタンカーメン、アイの4王とハトシェプスト女王の名はない。これらの王は記入漏れなどではなく意図的に外されたものであり、当時の価値観がよく現れている。つまりアクエンアテンによる宗教改革がエジプトを混乱に陥れ衰退させた元凶であり、ホルエムヘブ、ラムセス1世の努力でなんとか復興したエジプトにとって嫌悪すべき対象であった。ハトシェプスト女王に関しては女性のファラオを認めないということか、セティ1世が軍事の天才トトメス3世を崇拝していたことによるものと思われる。
| カルナック神殿の大列柱室 | |
![]() |
![]() |
| 王名表 | |
![]() |
![]() |
| セティ1世のステラ | |
![]() |
|
Bラムセス2世

誕生名:ラムセス(メリアメン)

即位名:ウセルマアトラー・セテプエンラー
在位B.C.1279〜1212。誕生名の意味は「アメンに愛される、ラーが産みだした君」、即位名の意味は「ラーの正義は強い、ラーに選ばれた者」。セティ1世の次男として生まれ、兄である長男(名前不詳)が早逝したため、若い頃から「王の後継者」として育てられた。25歳で即位、67年間にも及ぶ長期政権、平均寿命をはるかに上回る長寿(死亡したのは91歳頃)、後宮には多くの妃達、子供の数は100人以上とも言われ(若干誇張はあるかも)、軍事遠征や数多くの神殿建設等、後世に名を残したまさしく「大王」であった。長寿故に後継者となるべき王子達の方が先に亡くなってしまい、最終的に後を継いだのは第13王子のメルエンプタハであった。妃の中では第1王妃のネフェルタリを溺愛していたが、彼女の産んだ子供が後継者になることはなかった。ネフェルタリの死後は第2王妃だったイシスネフェルトが第1王妃に昇格。後継者メルエンプタハはイシスネフェルトが産んだ第13王子である。なお、同じくイシスネフェルトが産んだ第4王子のカエムワセトは、聡明で優秀、「世界最古の考古学者」と呼ばれる程古代の建築物の調査・修復を行った。次の王と期待される重要な人物であったが、残念ながらラムセス2世よりずっと早く亡くなってしまう。
| ラムセス2世 | 王妃ネフェルタリ |
![]() |
![]() |
| カエムワセト王子 | |
![]() |
新しい都「ペル・ラムセス」
この時代の経済・商業活動は、外国との貿易も含めてナイル川河口のデルタ地帯が中心となっていたため、テーベのような奥地で政治活動を行うのは効率的ではなかった。そこでラムセス2世は、思い切ってデルタ地帯の祖父ラムセス1世の出身地アヴァリスに近い土地に新しい都「ペル・ラムセス」(ラムセスの家という意味))を建設する。旧約聖書の出エジプト記によると、ヘブライ人が強制労働により建設した都の名は「ラメセス」となっており、実際にデルタ地帯には多くのヘブライ人が居住していたことから、この出来事はラムセス2世の時代のことと思われる。しかしエジプト側の記録にはモーゼの名もヘブライ人脱出の逸話も残っていない。

ヒッタイトとの戦い及び平和条約
ラムセス2世は治世5年目に宿敵ヒッタイトとの決戦に臨んだ。シリア・パレスチナ地域の交通の要衝であるカデシュでの決戦は、「カデシュの戦い」と呼ばれている。エジプト側は約2万人の兵士を動員、それを4隊に分けそれぞれアメン、ラー、プタハ、セト師団と呼ばれた。中間地点ガザからはそれぞれの師団から外国人傭兵を集めて別動隊を編成、本隊とは別に物資の補給が容易な湾岸沿いを進ませた。本隊はラムセス2世を先頭に陸路をカデシュまで進むが、食糧などの日用品を積んだ荷車も一緒の行軍は遅く、各師団の間隔も当初の10kmからだんだんと広がり隊列が伸びきった状態となっていた。先頭のアメン師団がカデシュの西に到着した時、ヒッタイトの放った「おとり」のベドウィン人によって「ヒッタイト軍はカデシュから北160kmの地点にいる」と誤った情報を与えられ、後続の3師団の到着を待たずにアメン師団のみでカデシュに常駐する少数のヒッタイト兵に攻撃を加えてしまった。ところがヒッタイト軍は約4万という大軍をカデシュのすぐ外側に待機させていたため、先遣のアメン師団はもちろん、後方で川を渡っていたラー師団にも襲い掛かり、数の上で圧倒的優位のヒッタイトに壊滅的な打撃を加えられる。ラムセス2世は諦めることなく弓を引きながら戦場を駆け回るが、戦況は極めて不利で全滅も時間の問題であった。そこに沿岸を進軍していた別動隊が到着し、何とか持ち直す。更に遅れてプタハ師団も到着、思わぬ反撃にあったヒッタイト軍はオロンテス川を渡り退避した。ヒッタイト軍は川に強固な防衛線を張ったため、エジプト軍もそれ以上進むことが出来ず、結局決着のつかないまま両軍とも帰国することとなった。その後数年間何度か小さな衝突はあったが雌雄を決することはなく、それぞれの国の内政事情も変わり、大規模な戦闘ができる状態ではなくなっていた。エジプトは隣国リビアの反乱鎮圧に兵力を割かれ、ヒッタイトは王の死去及び後継者争いの勃発や隣国アッシリアの脅威にさらされており、お互いに争っている場合ではなかった。そして治世21年、両国は世界初の平和条約を締結した。その内容は相互不可侵、他国からの攻撃にはお互いに助け合って迎撃する、亡命者の強制送還、争いの元となっていたカデシュ周辺の領土分割などである。この内容は当時の国際公用語のアッカド語で書かれ、両国の王が署名した。エジプト語の翻訳版も作成された。その後友好の証としてヒッタイトの王女がラムセス2世に嫁ぐなど良好な関係を維持した。引き分け(どちらかと言えばヒッタイト側優勢)のカデシュの戦いであったが、両国とも自国の歴史書には自分達が圧倒的な勝利を収めたと記録している。特にエジプト側の記録はラムセス2世の華々しい活躍を目いっぱい誇張して描かせている。

| カデシュの戦いの図 | ヒッタイトの戦車 |
![]() |
![]() |
アブ・シンベル神殿
ラムセス2世は数多くの建築物を残したが、中でも重要なものがヌビア(エジプトの最南端)にあるアブ・シンベル神殿である。崖をくりぬいて作られた2つの神殿のうち大きな大神殿がラムセス2世のため、小さな小神殿は愛妃ネフェルタリに捧げられたものであり、妃のためにこれ程大規模な神殿を建設することは他に例を見ない。彼のネフェルタリへの愛情を感じることが出来ると同時に、他の妃達に関するものはあまり残っていないことから若干偏愛が過ぎた感もある。なお、現在アブ・シンベル神殿は20世紀中頃のアスワン・ハイ・ダム建設による水没を避けるために、ユネスコの国際プロジェクトにより西に約180m、標高を約62m上に移動された。この国際プロジェクトにより「世界遺産」という概念が生まれた。
| アブ・シンベル大神殿 | アブ・シンベル小神殿 |
![]() |
![]() |
| 空から見たアブ・シンベル神殿 | |
![]() |
Cメルエンプタハ

誕生名:メルエンプタハ(ヘテプヘルマアト)

即位名:バエンラー・メリネチェル
在位B.C.1212〜1202。誕生名の意味は「プタハ神に愛でられしもの、喜ばしきは真実」、即位名の意味は「ラーの魂、神々に愛でられしもの」。ラムセス2世の第13王子。父が稀にみる長寿だったため、即位時にはすでに60歳を超えていた。軍人だったメルエンプタハ王の主だった実績は軍事関連の記録が残っている。治世5年目、西からリビア人と海の民(地中海沿岸の遊牧民族などいくつかの集団の集まり)の合同軍による侵攻の動きに呼応して、南のヌビアやその他のオアシス民族等が一斉に蜂起したが、高齢ではあったが軍人として大変有能だったメルエンプタハは、まず一番手強いリビアを早々に叩いて打破し、それにひるんだ他の地域を続いて素早く制圧した。またヒッタイトとの平和条約に基づき、北部から攻撃を受け、更に飢饉に苦しんでいたヒッタイトに穀物を送付する等の援助をしている。高齢で即位した王は約10年で治世を終えた。
Dアメンメセス

誕生名:アメンメセス(ヘカワセト)

即位名:メンミラー・セテプエンラー
在位B.C.1202〜1199。誕生名の意味は「アメンの産み出したもの、テーベの支配者」、即位名の意味は「ラーに選ばれ、ラーの如く永遠」。メルエンプタハ王には息子が少なくとも2人いたが、正妃が産んだセティ・メルエンプタハを後継者に指名していた。しかし実際に次王に即位したのは、側室タカトが産んだ息子アメンメセスであった。この辺りの経緯は定かではないが、父の死亡時たまたまセティ・メルエンプタハが不在にしており、その機に乗じてアメンメセスが王位を奪ったという説が有力である。そうまでして得た王位であるが、彼も即位時既に50代であり約3年という短い治世で死去した。
Eセティ2世

誕生名:セティ(メルエンプタハ)

即位名:ウセルケペルウラー・セテプエンラー
在位B.C.1199〜1193。誕生名の意味は「セト神の君、プタハ神に愛でられしもの」、即位名の意味は「力強きはラーの出現、ラーに選ばれしもの」。メルエンプタハの息子で後継者に指名されていたが、アメンメセス王の死によってようやく王位に就くことが出来た。即位後アメンメセスの名を記念碑等から削り取っていることから、やはりアメンメセスは王位簒奪者であった可能性が高い。セティ2世も同様に高齢になってからの即位だったため、約6年という短い在位期間であった。
| セティ2世の墓のレリーフ(王家の谷) | |
![]() |
![]() |
Fサプタハ

誕生名:サプタハ(メルエンプタハ)

即位名:アクエンラー・セテプエンラー
在位B.C.1193〜1187。誕生名の意味は「プタハ神の息子、プタハに愛でられしもの」、即位名の意味は「ラーのために美しく、ラーによって選ばれたもの」。セティ2世の後継者と目されていた長男セティ・メルエンプタハが早逝したため、次男ラムセス・サプタハが王位についた。しかし即位時まだ幼少で更に病弱(小児麻痺を患っていたことがミイラから判明している)だったため、政治の実権は、摂政となった義母のタウセルト王妃(亡くなった長男セティ・メルエンプタハの生母)と、彼女の側近だった宰相のバイ(外国人)が握っていた。実際に政治を行うことなく約6年の治世で死去する。この時点でラムセス1世に始まったラムセス一族の系譜は途絶える。
Gタウセルト女王

誕生名:タウセルト(セテプエンムト)

即位名:サトラー・メリトアメン
在位B.C.1187〜1185。誕生名の意味は「雄々しき貴婦人、アメンに愛でられしもの」、即位名の意味は「ラーの娘、アメンに愛でられしもの」。サプタハ(幼少、病弱なため後継者となる嫡子などあり得ない)の早逝により王位に空白が生じ、摂政だった彼女が女性でありながらファラオに即位した。特に目立った業績もなく記録もあまり残っていない。治世は約2年間。