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@セトナクト

誕生名:セトナクト(メレルアメンラー)

即位名:ウセルカラー・セテプエンラー
在位B.C.1185〜1182。誕生名の意味は「勝利はセトに、アメン・ラーに愛でられしもの」、即位名の意味は「力強きはラーの諸顕現、ラーに選ばれしもの」。第19王朝最後の王であるタウセルト女王の時代は非常に混乱していた。特に晩年アジア人による反乱も勃発し、神殿も閉鎖、治安は乱れ市民は安全な場所に避難するなど混乱を極めるなか、女王は亡くなるが、正式な血縁による後継者はいなかった。結局この混乱を収拾させた有能な軍人セトナクトが王に即位し、社会を安定させた。しかし約3年でセトナクト王は亡くなり、共同統治をしていた息子(ラムセス3世)が後を引き継いだ。
Aラムセス3世

誕生名:ラムセス(ヘカイウヌ)

即位名:ウセルマアトラー・メリアメン
在位B.C.1182〜1151。誕生名の意味は「ラーが産みだした君、ヘリオポリスの支配者」、即位名の意味は「ラーの正義は強い、アメンに愛されるもの」。セトナクト王の息子。偉大な王ラムセス2世にあやかって「ラムセス」を名乗ったが、ラムセス2世の血筋は第19王朝で途絶えており、血縁関係はない。この時代の出来事は大ハリス・パピルスと呼ばれる40mにも及ぶ文書や、メディネト・ハブのラムセス3世葬祭殿の壁面などに詳細に記録されている。
海の民との戦い
「海の民」とは単一の民族ではなく、この時代地中海沿岸で勢力をつけていた遊牧民族などいくつかの集団の集まりで、総称して「海の民」と呼ばれている。何年も続く不作により新天地を目指す民族の武力制圧により、ヒッタイトのような大国さえも滅ぼされていた。ラムセス3世の治世8年目、この海の民がエジプトに侵攻してきた。侵攻は陸と海両方から行われたが、どちらも民族大移動を兼ねた武装集団のため、家族や家財道具も一緒ということで動きは遅く、陸上の攻撃はエジプト軍精鋭によりあっさり敗退、問題は海上の武装船団であった。エジプト軍はもともと海戦は苦手(というよりほとんど経験なし)であったことから、ラムセス3世は海上の船団を海からナイル川支流の一つまで誘い込むという方法をとる。川の上で動きが取れなくなった船団に、河畔に構えたエジプト陸軍が一斉に攻撃、船を鉤で陸まで曳き寄せ、船に乗り込んで船内の敵を倒していった。ラムセス3世は敵を国内(ナイル川)に引き入れるというリスクを冒しても、不得手とする海戦を避ける戦術で見事勝利をおさめたのである。
これ以外にも治世5年目と11年目に西部のリビアの移民による襲撃があったが、どちらもエジプト正規軍の敵ではなく早々に鎮圧された。
ラムセス3世は熱心なアメン神信者であったため、こうした戦争の戦利品は全てアメン神殿に献上することとなり、アメン神官団の勢力は再び増していく。
労働者のストライキ
治世29年目、デル・エル・メディーナの墓職人の村で、給料(当時は食糧や生活物資などの現物支給)の不払いに抗議して、労働者達が座り込んでストライキを行った。記録に残る世界最古のストライキである。給与の不払いは、社会の経済状況が次第に悪化していたことを示している。墓職人とは、工夫の他、レリーフを描く芸術家、監督官など様々な専門職の集団であった。この村からは労働者の出勤簿が出土しており、労働者それぞれの欠勤理由などが記録されていた。欠勤理由の多くは「病気」であったが、中には「友人のミイラ作り」「誕生日」「二日酔い」などもあり当時の生活を窺い知ることが出来る貴重な資料である。
ファラオ暗殺未遂事件
ラムセス3世の晩年に王の暗殺計画が発覚する。首謀者は下位の王妃ティイで自分の息子ペンタウラー王子を王位につけるための策謀であった。この陰謀は事前に察知され関係者は全員逮捕された。主犯の王妃の他、後宮の事務長、執事、書記、後宮門番の妻達など総勢32名、みな王の身近な人々であり、王の身はかなり危険な状態であったと言える。関係者は裁判にかけられ全員が有罪となった(22名が死刑、10名が自害の強要)。また他にも担当した裁判官など5名が裁判に関わる不正(被告の妻などと宴席を持っていた)により裁かれ、1人は無罪、残りは全員有罪で3名が鼻と耳をそがれ、残り1人は執行前に自殺した。なお、裁判長として裁判を取り仕切っていたラムセス3世は、裁判の途中に死去したようで、途中から王の名が「偉大な神」という表現に変わっている。裁判の記録は「後宮陰謀パピルス」として残っており、現在でもその全容を詳細に知ることが出来る。
| ラムセス3世 |
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Bラムセス4世

誕生名:ラムセス

即位名:ヘカマアトラー
在位B.C.1151〜1145。誕生名の意味は「ラーが産みだした君」、即位名の意味は「ラーのような正義の支配者」。ラムセス3世の息子。父王の暗殺未遂裁判を継承し、無事完遂する。またその裁判記録も含めて、第20王朝初期からの記録を詳細に記録させた(大ハリス・パピルスと呼ばれる)。また、建築用石材を得るためにシナイ半島の採石場に遠征した記録が残っている。
| ラムセス4世の墓の壁画(王家の谷) | |
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Cラムセス5世

誕生名:ラムセス

即位名:ウセルマアトラー
在位B.C.1145〜1141。即位名の意味は「ラーの正義は強い」。ラムセス4世の弟。在位中に内戦が起きたと記録されているが詳細は分かっていない。ミイラから天然痘を患っていたことが分かっており、病弱だったものと思われる。
Dラムセス6世

誕生名:ラムセス(アメンヘルケプシェフ・ネチェルヘカイウヌ)

即位名:ネブマアトラー・メリアメン
在位B.C.1141〜1133。即位名の意味は「正義の主はラー、アメンに愛されるもの」。ラムセス5世の弟。治世2年目に前王ラムセス5世を葬っているが、通常王位の継承は前王の死によって行われるため、葬儀は前王の死後すぐに行うはずである。王位継承2年目までラムセス5世が生きていたということは、兄である前王を退位に追いやってラムセス6世が即位したのかも知れない。ラムセス6世はパレスチナやシリア方面の主権には無関心であったため、領地を次々と失い、この時代の東の国境線はパレスチナ辺りからデルタ東端まで後退していた。なお、墓の建設には熱心で現在でも壁画など非常に保存状態よく残っている。
| ラムセス6世 |
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Eラムセス7世

誕生名:ラムセス(イトアメン・ネチェルヘカイウヌ)

即位名:ウセルマアトラー・メリアメン・セテプエンラー
在位B.C.1133〜1129。即位名の意味は「ラーの正義は強い、アメンに愛され、ラーに選ばれたもの」。ラムセス6世の息子。詳細は不明だが、経済が不安定で物価が上がったとの記録が残っている。
Fラムセス8世

誕生名:ラムセス(セトヘルケプシェフ・メリアメン)

即位名:ウセルマアトラー・アクエンアメン
在位B.C.1129〜1126。即位名の意味は「ラーの正義は強い、アメンに役立つもの」。ラムセス3世の息子。甥であるラムセス7世からの王位継承は異例と言えるが、詳細は分かっていない。
Gラムセス9世

誕生名:ラムセス(カエムワセト・メリアメン)

即位名:ネフェルカラー・セテプエンラー
在位B.C.1126〜1108。即位名の意味は「ラーの魂は美しい、ラーに選ばれたもの」。ラムセス6世の息子。ラムセス4世〜8世の治世はそれぞれわずか数年という在位であったが、ラムセス9世は約18年間という安定した治世を得た。特に大きな反乱等の混乱もなく建築事業に専念したようであるが、その対象は主に下エジプトであり、テーベなど上エジプトは放置状態であった。この時期テーベのアメン大神官(大司祭)に任命されたアメンヘテプは、王の影響力の及ばない上エジプトにおいて絶大な権力を手にしていき、事実上の支配者となっていった。
| ラムセス9世 |
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Hラムセス10世

誕生名:ラムセス(アメンヘルケプシェフ)

即位名:ケペルマアトラー
在位B.C.1108〜1098。即位名の意味は「ラーの正義を守る」。出自不明。在位も短くファラオの権力は衰退の一途だったと思われる。
Iラムセス11世

誕生名:ラムセス(カエムワセト・メレルアメン・ネチェルヘカイウヌ)

即位名:メンマアトラー・セテプエンプタハ
在位B.C.1098〜1070。即位名の意味は「ラーの正義はとどまる、プタハに選ばれたもの」。この王の出自も不明。新王国時代最後の王。南のテーベでは、ラムセス9世が任命したアメンヘテプが長期に渡りアメン大神官を務めており、その権力は絶大なものとなっていた。ラムセス11世はこれを抑えるためにヌビア総督であったパネヘシをテーベに呼び寄せ、アメン神官団を含めテーベの管理監督をさせるが、軍人である彼に宗教の管理は無理であり、次第に神官団や市民の不満も大きくなっていく。結局軍の総司令官であったヘリホル(アメンヘテプと姻戚関係との説もあり)によってテーベは奪還され、ヘリホルがアメン大神官、テーベの宰相、ヌビアの総督と全ての権力を独占することとなる。テーベにおいてラムセス11世の影響力は無くなったに等しく、ラムセス11世治世20年目頃にヘリホルは自分の治世年(再生紀元)を数え始め、事実上テーベの王として即位した。ただしラムセス11世の支配下であった下エジプトを攻めるようなことはなく、それぞれの地域での支配にとどまり、大きな混乱はなかったようである。この時をもってエジプトは再度上下に分裂した。ラムセス11世とヘリホルの治世は約6年間重なっており、年長だったヘリホルがラムセス11世よりも先に亡くなった。この後エジプトは統一王朝のない混乱期(第3中間期)になっていく。
この時代のエジプト及び周辺国の様子を表す文書「ウェンアメン航海記」は、王の命によりレバノン杉を調達に行った使者の報告書である。以前のエジプトならばファラオの使者と言うだけで物資の調達などスムーズにいくはずだが、この時代はファラオの権威も失墜、正式な外交文書を持たずに出発したウェンアメンが行く先々で苦労をするという話である。フィクションかノンフィクションかは意見の分かれているところである。
| ウェンアメン航海記 | ||
再生紀元第5年夏季第4月16日、アメン神殿の神官ウェンアメンは神々の王アメン・ラーの聖なる船を作るための木材(レバノン杉)を調達するためテーベを出発した。 私が下エジプトの総督スメンデスとティネトアメンのいるタニスに着いた日に、彼らにアメン・ラーの命を記した命令書を渡した。彼らはその場でそれを読み、「それではそのようにしましょう」と言った。私は夏の第4月までタニスで過ごし、その後彼らに見送られ地中海へ船出した。 私はパレスチナ北部の町ドールに着いた。そこの領主はパン、ブドウ酒、牛肉などを送ってきた。しかし、船の乗組員の一人が積んであった金銀(木材の購入資金)を盗んで逃げてしまった。 私は朝起きると領主のところに行き、「あなたの港で盗難に遭いました。盗まれた金銀を探し出して下さい。」と言った。すると領主は「その泥棒が私の国の者ならば、その泥棒を捕らえるまで私が金銀を補償します。しかし泥棒はあなたの船の乗組員です。私があなたの国の者を裁くことは出来ません。しかし気の毒なのでしばらくここに留まりなさい。泥棒をさがしてあげましょう。」と言った。 私は9日間待っていたが、泥棒は見つからなかった。私は諦めてビブロスに向かって出港した。途中チェケル人(海の民の一つ)の船に遭遇し、積荷を調べたところ銀が見つかったので没収した。私はチェケル人にこう言った。「あなた方の銀を没収します。返して欲しければ盗まれた私の金銀か、それを盗んだ泥棒を見つけて来なさい。それまでこの銀は私が預かります。たとえあなた方が私の金銀を盗んだわけではないとしても、私はこの銀を頂きます。」 私はビブロスに着き、海辺のテントに「道のアメン」(アメン神の像)とともに落ち着いた。 するとビブロスの領主は使いをよこし、「ここから出ていきなさい」と言うので、私は「なら私をあなたの船でエジプトまで帰してくれ」と言った。私は29日間ここで過ごした。 私は諦めて船を見つけ帰国の準備をしていた頃、私の持っていた「道のアメン」の力により領主との会談が叶った。 私は彼に「あなたにアメンの恵みがありますように」と言った。しかし彼は私に「あなたが国を出発してからどれくらいになりますか?」と聞いた。私は「丸5カ月です」と言った。 すると彼は「分かりました。ところでアメンの命令書はどこですか?」と言った。私は「それはタニスでスメンデスに渡してしまいました」と言った。すると領主はひどく怒り、「勅書も書簡もあなたは持っていないのでは信用に値しない。スメンデスの船はどこにあるのか。この港にはスメンデスと交易関係のある船もたくさんあるのに、あなたはそれに乗っていなかった。」と言い、私は言い返せず黙ってしまった。すると彼は続けて「何の用で来たのか」と言いました。私は「アメン・ラーの聖なる船のための木材を入手しに来ました。あなたの父上も祖父もそうしてくれました。あなたもお願いします。」と言った。しかし彼は「確かに父も祖父もそうしました。しかしその際にファラオは財物を積んだ6隻の船を送ってよこし、倉庫に積み上げた。あなたは何も持って来ていないのですか?」と言い、彼の父親が記録した目録を持って来させ、読み上げさせた。私は「全ての物はアメン神のものです。川も海も船もアメン神のものです。神々の王アメン・ラー神は、私の主君ヘリホルに私をこの神像とともに送り出させたのです。でもあなたはそれを知らないまま29日間も港で過ごさせました。神はこの地にはいないのでしょうか?アメン神は生命と健康の支配者です。あなたの父上達に送られた金銀は、いわば生命と健康の代わりです。あなたもアメン神の僕としてその命令に従えば、あなたの生命は守られ、健康に保たれるでしょう。」と言い、更に「スメンデスのもとに使者を送らせてください。スメンデスはあらゆるものを送ってよこすでしょう。」と言うと、彼は私の手紙を使者に預け、少量の木材とともに船をエジプトに行かせた。冬季第1月に、使者はスメンデスの持たせた財物(黄金、亜麻布、パピルス、綱、レンズマメ、魚等)とともに戻ってきた。 領主は満足して、労働者と監督官とともにレバノン杉の伐採を手配してくれた。夏季第3月には切り倒した木材も海辺まで運ばれ、積み込みの準備も出来た。 領主は帰国前に私に、この地で亡くなったエジプト人(ラムセス9世の臣下カエムワセト)の墓を見ていくように勧めたが、私は「その必要はありません」と言い断った。そして「それよりもあなたのためには、この度のアメンのための良い行いを記した石碑を建てさせることを提案します。将来エジプトから来た使者が、その石碑のあなたの名前を目にすることになるでしょう。そしてあなたは西方(天国)において、神々と過ごしていけるでしょう。」と言った。しかし彼はそれを無視して「あなたの言葉には力がある」と言った。 私が木材の積み込みを行っている海辺に行くと、過日銀を没収したチェケル人の船が「彼を捕らえろ!エジプトに帰すな!!」と言って海からやってくるのを見つけた。私は我が身の不運を嘆いた。すると領主の秘書官がやって来て「いったいどうしたのですか?」と聞くので、「私を捕らえようとしている彼らが見えませんか?」と言った。秘書官が領主にこのことを告げると、痛ましく思った領主はブドウ酒と牝牛、更にエジプト人の歌い女を送ってよこして慰めた。また使いの者に「心配事は忘れて食べて飲みなさい。明日には私が皆に言うことをきかせます。」と伝えさせた。 朝になると領主は集会を開き、チェケル人に向かって「私は自分の領土内でアメンの使者を捕らえることは出来ない。とりあえず彼を送り出させてくれ。あなたたちは公海上で彼を捕らえるために後を追ってくれ。」と言った。 そして領主は私を船に乗せ出航させた。船はキプロス島に着いたが、町の人々が不審者である私を殺そうとやって来た。私は何とかすり抜けて、町の領主の娘ヘテプと会った。そして近くの人々に「どなたかエジプト語の分かる方はいませんか?」と聞くと、一人が「私は分かります」と言った。そこで私は「風と海が私をあなたの国に運んで来たのなら、あなたは彼らが私を殺すのを許してはいけません。なぜなら私はアメンの使者だからです。」と言った。すると領主の娘は人々を集めさせ皆に向かって言った… |
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ここでパピルスはちぎれており、続きの内容は不明である。これがノンフィクションだとすると、ウェンアメンが報告書として提出したものであるので、彼が無事に帰国したことは確かである。エジプトのかつての威光がそのまま通用すると思い、ある意味傍若無人に(ドールの領主に補償を求めたり、チェケル人の銀を没収したり)振る舞っていたウェンアメンが、実際には権威の失墜したエジプトの現状を外国で思い知らされるという、当時の世相をよく反映しているとストーリーである。登場人物のスメンデスはこの後第21王朝の開祖となる。