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マケドニア王家による支配(B.C.332〜305)



@アレキサンダー大王(アレキサンダー3世)


誕生名:アレキサンダー



即位名:メリアメン・セテプエンラー


在位B.C.332〜323。アレキサンダー3世はマケドニア王フィリッポス2世の息子。フィリッポス2世は非常に進歩的な考えの持ち主で、先進的な改革によってそれまで貧しい一地方に過ぎなかったマケドニア(首都ペラ)をギリシャの強国へと変貌させる。B.C.336にフィリッポス2世が暗殺されると、息子のアレキサンダー3世が跡を継ぐ。父の意思でもあったペルシャ遠征を実行、B.C.333、イッソスの戦いでペルシャのダレイオス3世に決定的な打撃を加え、続くアルベラ・ガウガメラの戦いで完全撃破、ペルシャ征服を成し遂げる。B.C.332、エジプトに入ったアレキサンダーをエジプト人はペルシャの圧政からの解放者として歓迎した。彼はエジプト東部の砂漠のシーワ・オアシスのアメン神殿まで出向き、アメン神の子、ファラオであるとの神託を受ける。彼はペルシャのような抑圧的な政策は行わず、エジプトの宗教、文化を尊重し、神殿の修復なども行ったことから救世主として民衆の支持を受ける。ルクソールのカルナック神殿の「アレキサンダー大王の間」にはアレキサンダー大王がアメン神に捧げ物をする場面が描かれている。しかし彼の目標は世界帝国の達成であり、再び東方遠征へと出発する。その版図はインダス川にまで及んだが、B.C.323、バビロンで病死、生きてエジプトに戻ることはなかった。死後遺体は彼の部下プトレマイオスによってアレキサンドリアに運ばれ埋葬されたとされるが、その墓はまだ見つかっていない。


 


 アレキサンダー大王の間のレリーフ




Aフィリッポス・アリダイオス


誕生名:フィリッポス・アリダイオス



即位名:メリアメン・セテプエンラー


在位B.C.323〜317。アレキサンダー大王の異母兄。大王の急逝後王位を継承するが、B.C.317に暗殺される。





Bアレキサンダー4世


誕生名:アレキサンダー



即位名:ハアイブラー・セテプエンアメン


在位B.C.317〜305。アレキサンダー大王の息子。B.C.311に暗殺されるが、記録上B.C.305まで統治したことになっている。実権はアレキサンダー大王の幼馴染の将軍ラゴスの息子、プトレマイオス1世が握っていた。