古代エジプトとは

紀元前3150年頃の第1王朝から紀元前30年のプトレマイオス朝滅亡までの約3000年間を指します。この間を初期王朝時代、古王国時代、第1中間期、中王国時代、第2中間期、新王国時代、第3中間期、末期王朝時代、プトレマイオス朝時代に区分しています(中間期とは国内が荒れて混乱している時代)。更にほぼ王の血筋毎に第1〜31王朝+ギリシャ支配のプトレマイオス王朝に分けられています。ギザのピラミッドが作られたのは古王国時代、ツタンカーメン、ラムセス2世等の有名ファラオ達は新王国時代、最後の女王クレオパトラはプトレマイオス朝時代です。古代エジプトの記録では年号はファラオの治世年で表します(○○王の治世○○年)。天皇の交代毎に変わる日本の和年号(昭和、平成等)と似たような概念です。西暦のような大きなスパンの年号はなかったため、王名表や天文学から年代を割り出しています。

  年代  王朝 
初期王朝時代 元前3150年〜紀元前2686年 第1〜第2王朝
古王国時代 紀元前2986年〜紀元前2181年 第3〜6王朝
第1中間期 紀元前2181年〜紀元前2040年 第7〜第10王朝
中王国時代 紀元前2040年〜紀元前1782年 第11〜12王朝
第2中間期 紀元前1782年〜紀元前1570年 第13〜第17王朝
新王国時代 紀元前1570年〜紀元前1070年 第18〜20王朝
第3中間期 紀元前1069年〜紀元前525年 第21〜第26王朝
末期王朝時代 紀元前525年〜紀元前332年 第27〜第31王朝
プトレマイオス朝時代 紀元前332年〜紀元前30年 プトレマイオス王朝






ファラオ(王)

古代エジプトでは王は絶対的な権力を持っていました。王は神(ホルス神)の化身であり、人間とは違う存在でした。昔は日本の天皇も「現人神」とされていましたが、それと少し似ています。「人間の中で一番偉い人間」ではなく、「神」そのものだったのです。王のことをファラオと言いますが、古代エジプト語では「ペル・アア」と言いました。「ペル」は家(ヒエログリフは家を上からみた形をしています)、「アア」は大きいを意味します。大きな家(=宮殿)に住むお方(すなわち王)を意味する単語ですが、ギリシャ人がそれを「ファラオ」と聞いたようです。昔、日本の天皇を「帝(みかど)」と言いましたが、これは「御門」(御所の門)を示しており、同じように御所に住んでいるお方という意味です。

アア






王名表

初期王朝から順番に王の名前をリストにしたもので、遺跡の壁面やパピルス(古代エジプトの紙、「paper」の語源)に描かれたものがあります。アビドスの王名表やカルナックの王名表、サッカラの王名表等があります。大英博物館にはアビドスの王名表の複製品(ラムセス2世の神殿から発掘)が保管されています。王名表には自分が古代から引き継がれた正統な王であることを顕示する目的があったようです。

王名表






マネトー

紀元前3世紀頃(プトレマイオス朝時代)の神官(ギリシャ系エジプト人)です。エジプトの歴史を全30巻の「エジプト史(Aigyptiaka)」にかなり詳細にまとめました(ギリシャ語)。原本は残っていませんが、当時周辺各国の歴史家等が自署にこの「エジプト史」を引用しまくっていたため、その断片から内容を知ることが出来ます。マネトーの生きた時代、エジプト王朝が始まって既に3000年近くが経過しており、初期王朝時代や古王国時代のことなどはその時点でも「古代」の話でした。ただ、まだヒエログリフもエジプト語も現役で使われていましたし、そこから更に2000年が経過した現在よりはかなり多くの記録が残っていたため、これだけしっかりしたものが書けたのだと思われます。古代エジプトを知る貴重な資料です。前述の王朝区分などはマネトーによるものが基礎となっています。

  Aigyptiaka






上下エジプト

現在のカイロの辺りを境に、ナイル川の上流にあたる地域を上エジプト、下流のデルタ地帯にあたる地域を下エジプトと言いました。もともとそれぞれの地域を治めていた支配者がいて、エジプトは2つの国という概念がありました。その2つの国を一つに統一した時から古代エジプト王朝が始まりました。







ナイル川

古代ギリシャのヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」という有名な言葉を残しています。国土の大半が砂漠であるエジプトですが、ナイル川の流域にのみ緑が生い茂り、農耕が行われました。ナイル川があったからこそそこで人々が生活し、文明が発達出来たということです。ナイル川は年に一度氾濫し、大洪水を引き起こしました。しかしそれは「災害」ではなく、「天の恵み」でした。氾濫に伴い上流から肥沃な土が流域にもたらされます。水が引いた後、そこに農作物を作付けすることで農業が成り立っていたのです。ナイルの水位はとても重要で、その予測をするために各地にナイロメーターと呼ばれる水位計がありました。現在はアスワン・ハイ・ダムが出来て、ナイルの水位はダムでコントロールされているため氾濫は起こりません。エジプトはそうして近代化を成し遂げたわけですが、農業においては上流からの肥沃な土がもたらされなくなり、化学肥料に頼らざるを得なくなってしまいました

ナイル川 コム・オンボ神殿のナイロメーター
   
 アスワン・ハイ・ダム  
   






ヒエログリフ(象形文字)

古代エジプトで使われていた文字です。ローマ支配後の4世紀頃には死語となっており、長らく誰にも読めない文字でした。1799年にナポレオンのエジプト遠征で「ロゼッタ・ストーン」が発見され、これがきっかけとなって1822年にジャン=フランソワ・シャンポリオン(フランス人)によって完全に解読されました。ロゼッタ・ストーンはエジプトの港湾都市ロゼッタ(ラシード)で発見された石碑で、プトレマイオス朝時代に書かれたものです。石碑には同じ内容がギリシャ語、エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と民衆文字(デモティック)の3種類の文字で刻まれており、ギリシャ語部分とヒエログリフ部分を比較、研究することで解読されました。ヒエログリフは表意文字と表音文字が混在した文字であり、それが解読を困難としていました。シャンポリオンは王名(カルトゥーシュで囲まれていた「プトレマイオス」と「クレオパトラ」)を比較することで、表音文字としての法則を発見しました。現在のアルファベットと対応させることが出来るため、自分の名前をヒエログリフで刻んだり、印刷したりするお土産が観光客には人気です。ところで、漢字も象形文字の一種で表意文字ですが、ひらがなやカタカナは表音文字です。日本語はこのように表意文字と表音文字を組み合わせて使っています。ヒエログリフでも似たような概念で表意文字と表音文字を使い分けていますので、日本人には意外と理解しやすいです。
現在のエジプトの言語はアラビア語です。これはイスラム帝国の支配により浸透したものですが、少数のキリスト教徒(コプト教)が使うコプト語が古代エジプト語の流れを汲んでいます。シャンポリオンは言語学者で、コプト語にも精通しており、ヒエログリフの解読にはその知識が大いに役立ったと思われます。

 ロゼッタ・ストーン


             

 ヒエログリフの読み方、意味
a s g wa nfr
美しい
i p h s t l kpr
現れる
y h sy ty htp
憩う
jed
安定 
a m k k d ka
 
pr
 
w n k k jy ank
生命
ra
太陽

 

        

シャンポリオンが解読に利用した2人の王名
 プトレマイオス P LLL
T O M Y S
 クレオパトラ KTTTTTT T
L E O P A R A
王名の中の同じ音の文字を比較することで解読につながった   






神話

古代エジプトは多数の神を信仰する多神教でした。日本太古の「八百万に神々」と同じように自然崇拝です。それぞれの神にそれぞれ役割があり(豊穣の神、医療の神など)、状況に応じて様々な神を信仰していました。第18王朝のアクエンアテン王(在位B.C.1350〜1334)によってそれまでの多神教を廃してアテン神(太陽の神)を唯一の神とする一神教への宗教改革が行われましたが、民衆にそれまで浸透していた長年の信仰を一切無くすことは難しく、世の中は混乱しました。結局次の王からまた多神教へ戻され、一神教が根付くことはありませんでした。しかしアテン神を讃える「アテン賛歌」の中には聖書の「詩篇」と非常に似通っている部分があり、ユダヤ教やキリスト教などの一神教のルーツになったと言われています。


オシリス
冥界の王。死者に対する裁判を行う。ファラオは死後オシリス神となるとされていた。 
バステト
ブバスティス(デルタ地域)の猫の女神。
イシス
オシリスの妹であり妻。セトに殺されたオシリスの復活を助けた。
ラー
ヘリオポリスの太陽神。古王国時代には特に崇拝され、王はラー神の息子とされた。
ホルス
オシリスとイシスの子。ファラオはホルス神の化身とされていた。ハヤブサの姿で表される。
クヌム
アスワンのエレファンティネ島のナイルの神。ろくろを回して人間を作った。
セト
オシリスの弟。オシリスと王権を争い、オシリスを殺害し、ホルスとも争う。
マアト
真実、正義、調和の女神。ラーの娘。
ネフティス
オシリス、イシス、セトの妹で、セトの妻。死者の守り神で石棺などに描かれている。
トト
書記の神。知識、学問の神。トキの姿で表される。
ヌゥト
天の女神。夜太陽を飲み込み体の中を通って朝それを生み出す。オシリスの母。
セベク
ナイルの水の神。ワニの姿で表される。
ゲブ
大地の神。オシリスの父。
アテン
太陽の神。アクエンアテン王によって唯一の神とされた。
ハトホル
ホルスの妻。愛と幸福の女神。
プタハ
メンフィス地方の創造の神。ミイラの姿で表される。
アメン
テーベ地方の神。首都となった中王国時代以降国家神となった。
ケプリ
スカラベ(糞転がし)の姿が太陽を転がしているように見えたことから神格化された。再生、復活の神。
アヌビス
ネフティスの子。墓地の守護神であり、ミイラ作りの神。ジャッカルの姿で表される。
ネクベト
上エジプトの守護女神。ハゲタカの姿で表される。



オシリス ホルス
   
幼いホルスを抱くイシス  
  キリストを抱く 聖母マリアの 元となったと 言われている





   
ハトホル バステト
   
アメン ケプリ






ミイラ

古代エジプト人が遺体をミイラにして保存したのは、彼らの死生観が大きく関わっています。人は死後オシリス神の審判を受け、そこで生前の行いを判定されます。正しい者(悪い行いをしてない者)は、心臓と真実の羽を載せた天秤がつり合います。その者は来世で永遠の生を受け、幸せに暮らせると考えられていました。天秤がつり合わなかった者は怪獣に心臓を食べられ、二度と再生できなくなります。これは「再死」と呼ばれ、古代エジプト人が最も恐れたことでした。再生のためには肉体が欠かせないということで、ミイラ作りが発展しました。ミイラは遺体の洗浄(臓器の除去、ただし心臓は戻す)→乾燥→梱包という工程で、死後70日かけて作られました。中でも重要な工程は乾燥です。腐敗を防ぐためには水分を除去しなければなりません。古くは天日干しで乾燥させていましたが、やがてナトロンという炭酸塩鉱物(炭酸ナトリウムの水和物と炭酸水素ナトリウムが主成分)を用いて、効率よく脱水するようになりました。ちなみにナトロンは元素名「ナトリウム」の語源です。また、古代エジプトは多神教(自然崇拝)で様々な動物を神として崇めており、動物のミイラも作成されました。

最後の審判を描いたパピルス   
 
   
ミイラ カノポス壺(臓器を入れる容器)
   
動物のミイラ 






国名

古代エジプトでは国の名前は「ケメト」と呼ばれていました。ケメトは「黒い土地」という意味で、ナイル川流域の人々が生活している黒い耕地を指します。それに対して、不毛の砂漠は「デシュレト」と呼ばれました。これは「赤い土地」という意味で、砂漠地帯の色を示しています。「エジプト」という名は「プタハ神」からきています。プタハ神はメンフィス(上エジプトと下エジプトの境界辺りの町)の主神で、そこにフゥト・カァ・プタハ(プタハ神の魂の宮殿)という神殿があり、ギリシャ人がそれを「アイギュプトス」と聞いて、それが「エジプト」となったと言われています。ちなみに「ケメト」はchemistryの語源です(毎年決まった時季に川が氾濫する不思議な国ということから、不可思議なことを示す言葉となり、そこから「化学」になりました)。

ケメト 
デシュレト 
フゥト・カァ・プタハ






ファラオの名前

ファラオには5種類の名前(ホルス名、ネブティ名、ネスウ・ビト名、黄金のホルス名、サァ・ラー名)がありました。


ホルス名
王朝初期から第4王朝頃まで使われていた。セレクと呼ばれる枠の中に記された。セレクは王宮を示しており、上にホルス神(ハヤブサ)がとまっているため、ホルス名と呼ばれている。ファラオはホルス神の化身とされていた。

ネブティ(二女神)名
上エジプトの守護神であるネクベト女神(ハゲワシ)と下エジプトの守護神であるウアジェト女神(コブラ)の2つの神とともに記される名前で、上下エジプトの統一を表している。ホルス名同様古くから使われていた。

ネスウ・ビト(上下エジプト王)名=即位名

上エジプトの川辺に生息する葦のような植物と実り豊かな下エジプトのミツバチを並べて記し、カルトゥーシュと呼ばれる枠の中に名前を記す。カルトゥーシュとはフランス語で弾丸の薬莢を示す言葉で、ナポレオンのエジプト遠征時に形が似てることから名づけられた。古王国時代の初期から使われるようになった。
黄金のホルス名
ホルス神と貴金属の胸飾りを組み合わせて記す。黄金はその輝きが決して褪せないことから「永遠」の象徴だった。
 

サァ・ラー(太陽神ラーの息子)名=誕生名

息子を示す鴨と太陽神ラーを示す円形のマークで表され、ネスゥ・ビト名と同様にカルトゥーシュの中に名前を記す。第6王朝から使われている。しばしばネスゥ・ビト名とペアで使われる。
 






カシェ(ミイラの隠し場所)

カシェ(cache)は「隠し場所」という意味。王墓にはミイラと共に多くの副葬品が埋葬されたため、墓泥棒の恰好の標的となりました。B.C.1000年頃、横行する墓泥棒に悩まされていた神官達は、せめてミイラだけでも泥棒から守ろうと、ミイラを2箇所程度の隠し場所に移動させそこを厳重に警備することにしました。その一つがアメンヘテプ2世の王墓(アメンヘテプのカシェ)、もう一つはディル・エル・バハリの断崖にある岩窟墓(ロイヤル・カシェ)です。アメンヘテプのカシェからはアメンヘテプ2世自身のミイラの他トトメス4世、メルエンプタハ、ラムセス4世など総勢16体、ロイヤル・カシェからはトトメス3世、ラムセス2世など総勢40体のミイラが見つかっています。ミイラや石棺には名前や来歴などが記されており、多くの王や王妃、王子・王女達のミイラが特定されています。





死者の書

死者の魂が肉体を離れてからあの世で再生するための道しるべ(最後の審判の内容等)を記した書。お墓に一緒に埋葬されました。パピルスまたは棺に記載され、棺に記載されたものはコフィン・テキストと呼ばれています。

パピルスに記された死者の書  
   
コフィン・テキスト  
 






古代エジプト人の生活

遺跡や遺物から古代エジプト人の生活の様子が伺えます。基本的に農耕民族です。ナイル川は毎年決まった時期に氾濫し、農地は全て水につかってしまいます。この間農業が出来ないため、この農閑期を利用してピラミッドや神殿などの建築を行ったという説(公共事業説)もあります。

住居の模型 ビール作り、農耕等の様子
ナイル川の船 パン、ビール等を作る人々
セネト(ボード・ゲーム) 竪琴
   
   
宴会の様子 狩りの様子






ヘロドトス

古代ギリシャの歴史家。B.C.485年頃、小アジアのハリカルナッソスの名家に生まれました。地中海沿岸諸国を旅行して回り、各地で見聞きしたことを「歴史(Historiae)」(全9巻)にまとめ、現在までほぼ完全に伝承されています。B.C.450年頃、第27王朝(第1次ペルシャ支配期)のエジプトを訪れ、文化、生活習慣、歴史、地理等について詳しく記録しています。大変好奇心旺盛で、視野が広く、偏見を持たずに物事を見ることが出来る人物でした。更に聞き上手で相手の話を引き出すことに長けており、独自の文化をもつエジプトにカルチャーショックの連続だった彼は、現地の人が話す内容を通訳を介して(彼はエジプトの言語は解さなかった)ひたすら詳細に記録しました。若干誇張や伝説、作り話的なものも含まれていますが、当時の様子を知る貴重な資料です。

Historiae





結婚

王家の結婚は次の王を決める重要な事項でした。王家の血統を守るために兄妹やいとこ同士、叔父と姪など近親間による結婚が普通に行われ、王位を受け継ぐのは正妃の産んだ王女でした。この王位継承権を持つ王女と結婚した者がファラオとなります。ただこの習慣も末期には大分崩れており、嫡出王子がそのままファラオとなるケースも多くなりました。また、血統が途切れないようにファラオは複数の妃を持つことが出来ましたが、三千年に及ぶ古代エジプトにおいては何度も血統の断絶は起きています。
なお、一般の人々には王家のような近親婚や重婚の習慣はなく、一夫一妻制で来世でも夫婦となることを誓いました。家族や夫婦の彫像など仲睦まじい様子を表した遺物が数多くあります。


 夫婦の彫像  







書記

古代エジプトの識字率は非常に低く、読み書きの出来る書記は高等教育を受けたエリートでした。単なる記録係というより、政治、経済、宗教活動の重要な担い手であり、書記座像なども多く残っています。「書記」をヒエログリフで表すと、「筆記具」(パピルスとインクパレットとペンケースがつながった形)と「人」を組み合わせた形になります。

「書く」 の意

書記座像






パピルス

パピルス草はカヤツリグサ科の多年生植物で、茎を薄くスライスして重ね合わせて乾燥させたものがパピルスと呼ばれる記録媒体(紙)です。ナイル川流域に広く自生していました。パピルスの製造には数週間かかり、大変高価な品で外国にも輸出されていました。記録には葦のペンを用いていました。古代エジプト時代以降も記録媒体として各地で使われ続けましたが、800年頃中国から紙が伝わると使用されなくなりました。現在ではエジプトの代表的な土産物として製造されています。

パピルス 作り方
   
パピルス列柱(開花状態)  パピルス列柱(つぼみ状態) 
   








古代ギリシャのヘロドトスは、エジプトの暦(太陽暦)はギリシャの暦(太陰暦)よりも合理的で正確だと述べています。エジプトではナイル川が規則的に氾濫しました。それに合わせて農業を行っていたため、増水時期を正確に知ることが不可欠でした。ナイル川の観測や天体観測により、東の空に太陽が昇る直前にシリウス星が輝く頃にナイル川が増水を始めることが分かっており、その日を新年(一年の始まり)としていました。次の増水が始まるまで約365日であったことから作られた暦が古代エジプトの太陽暦です。この暦では、1カ月が30日、12カ月で360日、余った5日を付加日として1年365日でした。最初の4カ月が増水期(アケト)、次の4カ月が蒔種期(ペレト)、次の4カ月が収穫期(シェムウ)、最後の5日間は祝日となっていました。太陽の公転周期は365.2422日なので現在の暦では4年に1度1日加える調整(閏年)をしていますが、古代エジプトでは閏年はなかったので実際には少しずつズレが生じていたと思われます。しかしナイル川の氾濫という季節事象を基に作られたことから太陽の公転周期とほぼ一致する優れた暦であり、現在の暦もこれを改良したものと言えます(古代ローマのカエサルがエジプトの暦を基に作ったのがユリウス暦、それを更に改良して作られたグレゴリオ暦が現在の暦)。なお、太陰暦は月の公転周期(29.5日)を基に作られるため、季節事象とは一致しません。数十日単位の調整(閏月の追加)が必要でした。

アケト(増水期)
ナイル川の氾濫により農地が水に沈む
ペレト(蒔種期)
水が引いた農地(肥沃になった
土地)に種蒔きをする時期
シェムウ(収穫期)
実った作物を収穫する時期


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